風のつぶやき! 栃木の「奥の細道」紀行、雲の写真・モノクロ写真を主体としたブログ

写真について(一)

30年ぶりに写真を始めてから数年が過ぎた。
当初はセール中の安い一眼レフを手に入れ、子供達の成長記録などをカラーで撮っていた。それも一年間に数本程度であった。

今から十年ほど前、勤めていた会社で最新の建築設計CADを入れ替えると同時に、お客様へのプレゼンテーション環境を充実させCADとデジカメによるコラボレーションを確立する為に最新のデジカメも一緒に導入した。
CADとデジカメ導入については私が主導的立場に立ち、約半年かけて最新の建築設計CADによる建築部材の拾い出しから建築資材の統括的な見積書作成迄をほぼ確立する事が出来た。
CADによる図面の作成はマニュアルどおりに習得すれば誰にでも操作出来るのであるが、建築資材の種類、寸法や単価の入力、資材の拾い出しをする為の設定、そしてそれを基にした見積書の作成、これらの環境設定が一番面倒で試行錯誤しながらの作業であった。結果的にはこの作業が一番時間がかかってしまった。
しかし、一度しっかりと環境設定をし流れを覚えてしまえば後は機械(パソコン)が処理してくれる訳であるから、大変な人的コストの削減になった筈である。
そして、一緒に導入したデジカメ、確か98年に発売されたエプソンのCP600であった。画素数は130万画素と今の画素数とは雲泥の差ではあったが当時としては定価84,800円の最新モデル機であった。これも仕事で使うには十分で現場の撮影、物件の撮影と大変役立った。
それとは別にその頃から私の写真心が再び芽生えはじめ、デジカメを借り出してはいろいろな所を撮っていた。
そして、1997年に”省エネ住宅”の情報サイトとして発信しはじめた私の個人サイト「五月の風」にそれらの写真を載せるようになったのである。
特にデジカメの凄さを実感したのは、2000年に栃木県壬生町をメイン会場に開催された「マロニエ緑花祭2000」であった。
壬生会場は自宅の近所の公園であったので会期中は毎週のようにデジカメを片手に会場の様子を撮り捲っていた。そして、その日のうちに最新の情報を私のサイトに載せて発信していた。
その頃はデジカメの便利さとそこそこに撮ることが出来る解像度にえらく満足していた。
しかし、デジカメの進化は凄まじく半年と言えずに解像度の画素数と性能は鰻上りのように各社各様凌ぎを削りながらも改善されていった。
私も今のデジカメには飽きたらず、量販店のあんちゃんの甘い言葉に囁かれ最新の220万画素搭載のコンパクトデジカメを買ってしまった訳である。
また、その頃私は俳句に興味を持ちはじめ駄句ながらも詠むようになり、俳句関係の書物を読み漁るうちに芭蕉の「奥の細道」に大変興味をもった。
休みを利用してはデジカメ片手に芭蕉の歩いた栃木県内の「奥の細道」をたどり県内にある芭蕉の句碑とともに私のサイトに「奥の細道」栃木路として発信してきた訳である。
(現在は”「奥の細道」野州路を歩く”としてブログに再編中であ。)

しかしデジカメの進化は留まることを知らず、ますます速度を速め今や800万画素数以上となってしまった。
当然この異常な進化には私の懐具合もついてはいけず、現在まで220万画素数のコンパクトデジカメで待機中なのである。
これが私のデジカメに係わった経緯である。

次回は、何故に銀塩、それも何故にモノクロに拘っているかについて書いてみようと思います。

写真について(二)

昭和44年宇都宮市の県立U工業高校の電子科を卒業した私は矢板市のS社に入社した。
そこで同郷のK氏と知り合う。K氏は早くから写真をやっており、暗室を作ってフイルムの自家現像からプリントの自家引伸ばしまで既にやられていた。
その頃、K氏は天体観測をやっていて天体の写真を主に撮っていた。
私は天体などには全く興味はなく、彼の処理するフイルム現像、そしてプリントの引き伸ばしに時々付き合わされていた。
毎週土曜日の夜になると決まってプリントの引き伸ばし処理をしていた。それも夜だけ、暗幕を張っての急ごしらえの自然暗室であった。
酢酸の臭いのこもった狭い部屋で現像液に浸した印画紙に徐々に浮き出てくる画像、いつしかこの感動の瞬間が私を素晴らしいモノクロの世界へと導いてくれたきっかけとなったのである。
いつも時間などは関係なく暗幕を外すと東の空は白み始めていた。
この頃、私はカメラを買うために安い給料の中から少しずつ貯金をしていた。初めニコンが欲しくて欲しくて堪らなかったが安給料の当時の私には高すぎて手が出なかった。
一方K氏は天体写真を主に撮っていたので全マニュアルのアサヒペンタックスSVを使っていた。いつもバルブ撮影なので露出計は必要ではなかったのであろう。
私はカメラを何処のメーカーにするか悩んでいたがTTL開放測光を搭載したアサヒペンタックスSPにほぼ絞っていた。その当時、ニコンに比べて価格も安く、レンズも良く、そして何より露出計が組み込まれていて使いやすく一番人気が高かったことが決め手になった。確か当時の価格が50mmF1.8の標準レンズ付で4万円位だったと思う。その当時高卒の私の初任給は2万1千円位でした。
手に入れてからというものは、休みになると毎週のようにカメラを持ってはオートバイで徘徊するように写真を撮りまくっていた。
最初のうちは物珍しくカラーでいろいろと撮っていたが、K氏と付き合うようになってからは現像処理の面白さも手伝ってか、次第にモノクロへと傾倒していった。
その頃、私は雲の表情の面白さに魅力を感じK氏の天体写真に対抗して雲の生態写真を撮りはじめていた。
そんなある日、宇都宮市のとあるデパートで宇都宮市在住の気象学者、鈴木正一郎先生の写真展が開かれたのである。

写真について(三)

写真展は最上階の催事場で開催されていた。
確か半切の写真がパネルに貼られ、カラー作品とモノクロ作品が数十点ほど展示されていたと思う。
私が一番目に焼きついている作品は,真っ黒な空に煙のようにもくもくと湧きあがる積乱雲のモノクロ写真であった。全体の五分の一が地上部分,五分の四が空と雲に占められた構図で引き締まった黒い空にくっきりと描かれた積乱雲は恐ろしささえ感じられた。
私はその会場へキャビネに伸ばした雲のモノクロ写真を数枚持っていった。そして鈴木先生に評して頂こうかと思っていた。しかし私が行った時先生は不在で先生の友人と云う方が私の話を聞いてくれた。でもその方は先生の撮影データーなどは知る由もなく、まして20歳そこそこの私の写真を見ても先生に話しておきますよ。と、にべのない返事であった。
それからというもの、私は以前にもまして雲の魅力にとり付かれ、カメラにはモノクロフイルムを常備装填し、休日は勿論のこと会社の休み時間にもカメラを持ち出して雲の写真を撮る始末であった。
また、写真には飽きたらず易しい気象学の書物なども読み始め、ラジオ用天気図用紙を取り寄せて気象天気図を書くほどまでに熱中してしまった。
しかし、写真は撮っていたもののネオパンSSやSSS、トライ−XなどにY2やO2の濃いフィルターを付けて撮った写真には何故か不満を感じていた。やはり写真展で見たあの真っ黒な空にくっきりと浮かび上がった真っ白な雲が目に焼きついていたのである。
その頃、私は一冊の写真集を本屋に頼んでいた。名前は忘れてしまったが定価が3,500円くらいの大判サイズで、すべてモノクロで撮った雲の写真集であった。大判サイズのこの写真集はページ全体に余白を取らずに写真が印刷され、ページを捲るごとに”ガッーン”と強力な衝撃を私に与えてくれた。鈴木正一郎先生の写真も素晴らしかったがそれ以上にこの写真集には凄い素晴らしさがあった。同じ雲の生態記録写真なのだが芸術性の高い作品を見えいる様でもあった。
望遠で大胆にカットした写真、ワイドで緻密なまでに撮られた写真、かとおもえば増感してわざと粗粒子に仕上げた写真、見るもの全てがモノ新しく感動の連続であった。
それと各写真に明記された撮影データ。これが私にとっては一番参考になった。私はこの写真集によってミニコピーフイルムを使うことを知り、今まで思い悩んでいたあの”黒い空、白い雲”を手に入れたのである。

写真について(四)

雲を撮るようになってからは55mmf:1.8の標準レンズ一本では物足りなくなってきた。
果てのない空に広がる雲を視野一杯に写し込むには広角レンズがどうしても欲しい。
35mm、28mmか24mm、そして欲を言えば魚眼レンズの3本があれば最高なのだが当時の私の給料では3本も買える程の余裕はない。ましてや雲以外にも広範囲に使えるレンズを一本だけに絞るとなると一番無難な28mmになってしまった。そして手に入れたのがSPの純正レンズ、スーパータクマー28mmf:2.4であった。
ダイキャストシルバーのSPボディーには28mmレンズ、フィルターはY2かO2、そしてフイルムはSS、SSS、トライ−X、ミニコピーを使い分けて撮り捲くっていた。
当時のフイルムフォルダーのメモを見るとこの時期は雲ばかり撮っていたようだ。
たくさんのネガケースには所々に印があり気に入ったコマだけをラボに出してプリントしていた。
その後、風景と撮影会に凝った時期があった。
誰も同じ経験があると思うがポートレートや風景の撮影会などに参加すると、構図を決めるにしても標準や広角レンズだけでは無理な場面が多々ある。風景では遠くにある被写体を近くにグッと引き寄せてみたいと思うのが人情であり、ましてや回りに陣取るカメラマンが筒の長いレンズを装着していれば自ずと劣等感も湧きあがり、当然筒の長い望遠レンズが欲しくなってくる。
私に限らず写真をやっていれば早かれ遅かれ”レンズ欲しい病”が発症してくる。
この病は、傑作を生むが為に必要に迫られて発症する場合と、劣等感からくる必要でもないレンズをたくさん持っていたいと思う心の病として発症する場合がある。
俗に後者の場合を”道具屋”病とも言う。
私も例に漏れず一年ほど経ってから発症した。欲しいとなるといてもたってもいられず当時発刊されていた日本カメラ、アサヒカメラ、カメラ毎日のページを捲っては交換レンズの事ばかり考えていて写真を撮る気にもならなかった。
既に広角レンズは手に入れていたから”望遠レンズ欲しい病”の発症である。
この時も広角レンズの時と同じように3本に絞っていた。105mm、135mm、200mmであり、最終的には撮影目的と予算から考えて一番無難な135mmf:3.5に落ち着いてしまったのである。
欲しかった2本のレンズを手に入れてからは私の”レンズ欲しい病”も”ガマン”と言う特効薬で一応治まった。
それから、勤めていた会社主催の撮影会が何回かあったが当然手に入れた135mmレンズを着けての参加、スーパータクマー135mmf:3.5単玉の素晴らしい描写の真価が発揮されたのは言うまでもない。

写真について(五)

snkisins.jpg




ここに一枚の写真がある。
この写真は、私が写真を始めて最初にフイルム現像にトライした記念すべき作品である。
紙製のネガケースには35mmフイルムが6コマに切られて収納され、昭和47年5月撮影とメモがしてある。
フイルムは富士フイルムのSS、36枚撮り、フイルム感度当時はASAと呼ばれ感度100で今のアクロスの前身である。ネガケースには現像処理データも書かれていた。
当時の現像タンクはつい最近まで使っていた初心者向きの浅沼商会プラスチック製ベルト付である。
現像液はミクロファインで処理時間はメーカー指定で処理してあり今とほとんど変わりはなかった。
200本程あるネガの内100本ほどのネガの状態は至って良くカビは殆どなかった。
おそらく当時、鰹節の入ったブリキ缶にテープで封をしていたので湿気を通さなかったのであろう。
ブログ”風のつぶやき!”にUPしてあるチョッと時代遅れの写真や雲の写真は殆どこの頃の作品である。
それから半年位してから漸く引伸ばし機を買うことができた。
それまでは気に入ったネガをK氏の所で焼いていたのだが迷惑を掛けるのと気が引けるのが手伝って機材一式を思い切って揃えてしまった。
確か、引伸ばし機はラッキー90Mで全紙まで引伸ばせる機械であった。プリントは半切が主で印画紙は月光印画紙 (三菱製紙)を使っていた。特に気に入った作品は半切に伸ばし、自分で木のパネルを作って貼り込み部屋に飾っていた。
今でも何枚か残っているが水洗いが甘かったせいか黄色く変色しまっている。
今、思い出すと写真にのめり込んでいたあの当時が非常に懐かしい。
狭い押入れに潜り込んでは”どてら”を頭から被り、汗だくになりながら現像タンクにフイルムを巻き込んだ事、寒い冬の夜、両親が寝静まった後、自然暗室である風呂場でプリントする為にバットに張った現像液や定着液の温度を調整するために鍋にお湯を入れそれをバットに入れて温度を管理した事、定着の終わったプリントの水洗いの為、バケツにホースを引き込み長時間水道を出しっ放しにして水道代が勿体ないと母に叱られた事、などなど想いだしたらきりがない。
酢酸の匂いの篭った狭い風呂場で露光を掛けた印画紙を現像液に浸し、撮った画像がジワジワと現われる時のあの緊張感、そして感動。それは至上の悦楽でもあり、この至福の時は写真をやった者でなければ味わう事が出来ないのではないだろうか。
技法的にもフイルムの増感や減感など。
特に高感度フイルムをわざと感度を上げて撮り(TRY-XをASA1600で)温度を上げたりした現像液で処理する増感もよくやった。プリントすると粒子が非常に粗く仕上がり、当時写真雑誌で流行っていた前衛的な作品に真似て仲間同士で自慢しあっていた。そして思いつく限りのいろいろな技法を自己流なりにも試していた思い出がある。
その様な訳で当時の僅かな小遣いは殆んど写真という道楽、いや高尚な趣味に消えていったのである。

写真について(六)

数年勤めた某電気会社から木材会社と言う未知の世界へと転職した私は新たな仕事を覚える忙しさもあってカメラを持つ機会も少なくなっていた。それでも暇を見つけてはモノクロに似合いそうな被写体を求めていろいろな場所を徘徊していた。
そんな時、友人から中判カメラを使っては見ないかと言う話があった。
友人はマミヤプロフェッショナルC220を持っていたが新しくゼンザブロニカ6*6を買ったのでC220を安くゆづると言う話であった。
その頃、私も中判に魅力を感じはじめ欲しくてしかたがなかった。この降って湧いたような話に飛びついたのは言うまでもない。
C220は二眼レフカメラ、上のレンズで被写体を確認し下のレンズで撮影する上から覗き込むタイプでボデーには標準レンズが付いていた。しかし同じ中判6*6なのだが友人の買ったブロニカが何故か気に掛かる。しかしその当時の私には新品のブロニカを買える余裕などなくC220を2年ほど使っていた。
数年前に整理したネガを見てもブロニーサイズのネガは数えるほどしかなかったのであまり使わなかったのであろう。その当時の私には単体露出計もなく6*6という真四角のフォーマットサイズが使いこなせなかったのではないだろうか。ただ中判という響きの良い名前だけに魅せられていただけなのかも知れない。
それからは仕事に追われ、結婚という事もあって約20年ほどカメラから離れてしまっていた。

1997年7月、私は以前から興味のあったインターネット上にホームページを開設した。
勤めていた会社で新しい事業を始めたことでこの事業を広く知ってもらう目的でその事業内容や情報を詳しく発信していた。最初は今のような便利なソフトも少なく高額であった為HTML言語を勉強しながらメモ帳にタグを打ち込んで立ち上げていた。
またその頃はアクセスポイントが東京にしかなくダイアルアップ回線だったので毎月の電話料金が4〜5万円ほど払い込んでいた。
ホームページを更新するのに只一つだけ悩みがあった。写真である。Webに強力なインパクトを与えるには何か惹き付けるような写真が欲しかった。最初はフリー画像で賄っていたがどうしてもオリジナルの画像が欲しい、そんな時、前にも書いたように会社でCADと一緒にデジカメを導入した。150万画素の最新コンパクトデジカメであったがオリジナルの画像を載せるには十分過ぎる解像度であった。

2000年秋、私の住まいの近所の公園をメイン会場にした平成12年全国都市緑化フェアが開催された。私はその様子を発信してみようと開幕以前より会場に入り込んでその様子をデジカメで撮り、会期中毎週のように緑化フェアの情報を発信続けていた。
そしてそれを境にホームページも写真やエッセイ等の私個人の趣味が大きくウエイトを占め、会社のホームページとは別に私の趣味(写真やエッセイ)の発表の場として「五月の風」を発信してきたのである。

写真について(七)

その当時使っていた150万画素のデジカメの描写にはWeb上では何の不満もなかった。
とちぎ花博の会場で朝撮ってきた画像をPCのレ・タッチソフト、AdobePhotoshop5.0で画像を処理、そしてすぐさまWebにUP、デジカメの速効性、これはまさに写真に於ける一大革命ではないだろうか。
しかしデジカメ市場に於けるメーカー間の熾烈な競争、これによってデジカメの性能はますます向上し、今や画素数は800万画素以上、また取り扱いも至極簡単になり全てがオートマチック。ただ被写体にカメラを向ければ誰でもが美しい写真を間違いなく撮れる、ウン十万円もする高級な一眼デジタルカメラも今や一昔前の”バカチョンカメラ”と同列になってしまったのではないだろうか。(これはあくまでも私の独断的偏見なる解釈ですので)。
写真関係のWebサイトは今や星の数ほど(私も含めて)あるがどのサイトをみても有名な写真家が撮ったのではないかと思えるような素晴らしく美しい綺麗な作品が目白押しである。
そう言う私も例に漏れず、その後新しく手に入れたコンパクトデジカメで綺麗な写真を追い求め、気に入った作品を見ては悦に入る毎日であった。
そんなある日、写真家のサイトをネットサーフィンしていてある写真家のWebサイトに出会った。そのサイトは全てが銀塩モノクロームで構成され掲載された作品のモノトーンの素晴らしさ美しさに魅了されてしまった。
そうだ、これだ!。カラーだけが写真ではない。
昔のように写真の原点に戻ってモノクロームの素晴らしさを再現してみよう。そして拘る以上は銀塩モノクロフイルム、デジカメで撮りレ・タッチソフトでグレースケールに変換する手法もあるが拘る以上は原点からやってみよう。
一眼レフカメラは以前に買ったミノルタα303siと埃を被ったペンタックスSPFがあった。別に銀塩を始めるからといって新しいカメラを買う必要もない、機械が正常に動くのとレンズにカビなどがなければそれで十分である。しかしSPFの平均測光機能は完全に壊れていた。でも露出は303siで十分代用できた。
休みの日、撮影に行くときはこの二台のカメラにモノクロフイルムを詰め、モノクロに合う被写体を求めて徘徊していた。
日光、足尾、渡良瀬遊水地、そしていまだに拘っている上南摩へとのめり込んでいった。
最初、フイルムはラボへ出していた。しかしモノクロフイルムは需要が少ない為か仕上がりが遅く10日ほど掛かってしまう。露出具合(写真の出来具合)を確認するためにも10日という時間は余りにも長すぎた。
こうなったら自家現像しか方法はない。しかし昔やってはいたがすでに30年も前の事である。処理が出来るかどうかそれが不安であった。
早速、フイルム現像に必要な機材・薬品などを買い揃え、資料を見ながら昔の感覚を想い出し次第にフイルム現像の魅力にとりつかれていった。
(この様子は”フイルム現像顛末記一.二”としてこちらこちらに綴ってあります。)

写真芸術を読んで。

先日、仕事で調べ物があったので図書館に行った。
目的の図書が見つかり数冊借りてきた。
ちょっと時間があったので写真図書のコーナーに寄って来た。
いつも行く図書館なので100冊以上ある写真集は全て見てしまっている。
見慣れている写真集の中でもやはり黒白の写真集が何故か目に止まる。
土門拳、木村伊兵衛の写真集、そしてアンセル・アダムス、アンリ・カルチェ・ブレッソン、ブラッサイの写真集などなど行く度に見ている。
何遍見ても見飽きることはない。モノクロをやっている私にとっては最高のバイブルであるからだ。
土門拳のオリジナルプリントは見たことがあるが、その他は写真集でしかみた事はない。
数年前、土門拳のオリジナルプリントで見た”筑豊の子供たち”これだけは今もって私の目に焼きついている。あの引き込まれそうな黒。

書棚をみると写真集に混じって1979年に発行された”朝日選書・金丸重嶺著「写真芸術」”が目に止まった。
ぱらぱらと捲ってみたが内容にかなり難しい事が書いてある。
今までに、写真家の自伝書などはそれなりに読んできた。でも、この本は私の求めていた写真の真髄に迫るような、興味ある内容が書かれている。
早速借りてみた。
内容が哲学的で、頭の出来の悪い私にとってはかなり難しい内容だ。私がもう少し学校で真面目に勉強していたならば、この素晴らしい内容が理解できたろうに。
今悔やんでも致し方がない、ここは我慢のしどころ、睡魔に邪魔されながらも老眼鏡を掛けて一文字一文字注意深く読んでみた。
とても素晴らしい事が書いてある。少し抜粋してみよう。


「写真と表現」
”現実と象徴”
写真は見たものについて何を感じ、如何に感じたかを伝えることによってつくられる。

カルティ・ブレッソンは、人間を描くことにおいて特に傑出した多くの作品を残している。
彼の初期作品(1932年)にモンパルナスのあるカフェのテラスで撮った一人の老人の写真がある。
帽子を被り、ステッキに手をのせて外を見つめる眼は異様に光っているが、老残の姿は覆い隠すことの出来ない寂しさを与えている。
現在にある姿は、遠い人生の旅路をはるかに思わせて、この一枚の写真からは見る人に多くの想像を与えてくれる。
この写真が優れていることは、見るものにとって、単に、構図や、明暗、さらに表情という画面の上に現れた問題ではなくて、この画面の内側に潜む
何かの漂うものから発展して、見る人の想像の中に作られる意味が感じられてくることである。
作者が対象に向かって感じた意味、その支えがあって初めてそこに生きている具体感を感じさせる。
ハーバート・リードは、想像について次のように言っている。
「記憶は、イメージを呼び戻す能力であり、想像は、イメージを相互に関連させ、思考や、感情の過程でそれを結び合わせる能力である。」
写真家の目的は、技術の操作者ではなく、それによって、混沌とした現実の形に秩序を与えることである。」
カメラの前にある現実を組織立て、集約し、そこにある意味を明らかにして、画面の上に自分の考えを認識されるように表現されたとき初めて、作品としての立場をもってくる。
そこには、画面の上にあらわれる状態を説明するために、作者自身の主張も強調される。又画面の中にあらわれる光の関係や、構成を巧みに計算することによってそこに意味するものを暗示させることもできる。


以上、ほんの一部を抜粋してみたが、ちょっと古いがこの素晴らしい書籍を読んで頂くか否かは写真を愛して止まない諸兄のご判断に委ねたいと思います。

写真について(八)。

モノクロ写真を撮るようになってから月10本程消費するようになった。
週末にカメラを持って出かけるとだいたい2〜3本は撮ってしまう。
使用するフイルムはプレスト400かトライXが殆どで、予備にアクロスを数本持ってゆく。
午前中撮影し、そして午後には撮り終えたフイルムを現像処理、夜までにはスキャナーで読み取ってフォトショップで画像処理して即UPしてきた。
数年前からWebデザインもある程度考えるようになり、フラッシュで編集して載せるようになった。
フラッシュを多用する目的は、デザイン的な面があるがそれと共にUP画像をコピーされる事が出来ない為でもある。
人によってはフラッシュを用いて写真を見せる事を邪道だと嫌う方もいるようだが、Webデザインが進歩している今、その様な考え方自体、頭が古いのではないかと思ってしまう。
さて現像であるが、最初の頃は浅沼商会のプラステック製ベルト付きのタンクに巻き込んでいた。
付属のベルトには両側にダボがあり、巻き込んだフイルムとクリアランスができる様に工夫され、初心者にも簡単に巻き込む事が出来る。
(私も昭和50年頃に現像を始めた頃は、これを使って覚えたものである。)
最初、巻き込みには暗室もダークバックも無かったので暗い押入れに入り、どてらを被って汗だくになりながら巻いていた。
現像液はいつも手に入りやすいフジフィルムのミクロファイン。
現像時間が長いため現像ムラが出にくいのとシャープに仕上がると言う事で1:1の希釈を採用した。
現像時間、液温、攪拌はメーカーの指定を忠実に守って処理。
処理液はそのつど水で更に薄めて廃棄。
液温は大きな器に水を張り、夏場は氷、冬場はお湯で20℃に保ち、その中へタンクを浸して処理液の温度を20℃に保った。
(5月と10月頃は水道水が20℃位なのでストレス無く温度管理が出来る。)
その後、現像液はコダックのD−76に何故か拘りを持ち、今でも私の標準現像液としてD−76、1:1希釈で処理している。
(フイルムがコダックの場合、ミクロファインでは現像処理時間の正確なデータがないためでもある。以前、フジフイルムに問い合わせた事があるが、処理時間は分からないとのにべの無い返事が返ってきたことがあった。)
停止は文献などでは氷酢酸の希釈を薦めているが、水道水を用いても現像ムラなどの変化が無いので今は殆んど水道水で処理している。
(どうしても鼻にツンとくるあの酢酸の臭いが嫌いな為でもある。)
で、だいたい30秒位の攪拌処理。
定着はフジフィックスで10分。
水洗いはフジの水洗い促進液をタンクに注入し、30秒ほど攪拌して水道水の流水で10分程の処理。
これが私の標準的なフイルムの現像処理である。
もともと科学分野には疎い方なのでフイルム現像に関する専門的な化学薬品の知識はない。ただフイルムのコマ数を多く撮って試行錯誤、まさに習うより慣れろである。
(その後、35mmタンクは、LPLのステンレスタンクに替えた。)


ニコン、フィルムカメラからの撤退。

”ニコン、フィルムカメラからの撤退。”
先日、こんなニュースがネット上を駆け回った。
私達、写真を趣味とする輩には、非常に悲しむべく内容のニュースであった。
フィルムカメラについては新年の挨拶に書いたばかりであった。
以前から気に掛けてはいたが来るべき時がとうとうやって来た。
それも、よりによって目を疑いたくなるような老舗、ニコンではないか。
二種類のフイルムカメラ、F6・FM10は継続されるものの、それ以外のフィルムカメラは生産中止という事である。
そして、これからニコンはデジタルカメラに重点を置くという。

今、カメラ各社はデジカメ市場のシェアアップを目指して性能面、価格面でしのぎを削りあっている。
会社を存続させ、勝ち組みに残る為に不採算部門を切り捨ててゆくのは当然の理であり、いたしかたがない事ではないかと思う。
これからもフィルムカメラは容赦なく淘汰され、カメラ業界では今以上にデジタルカメラ、シェア首位争奪の熾烈な争いとなってゆくのではないだろうか。

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コニカミノルタ、カメラ・写真フィルム事業から撤退

先日、”ニコン、フィルムカメラから大幅縮小”という衝撃的なニュースが流れたばかり。
今度は”コニカミノルタ、カメラ・写真フィルム事業から撤退。”と言う記事が流れていた。
コニカと言えば昔、小西六としてカメラ、銀塩フィルムの老舗でもあった。
私も昔、雲の写真などを撮るのにサクラ赤外線フィルムを愛用していた一人でもあつた。
また、ミノルタは現在フィルムカメラα303siを愛用し、安価ではあるがとても使いやすく発売当初から使い込んでいるカメラでもある。
しかし、悲しいニュースではあるが致し方ない。
この先、フィルムカメラからの撤退が続くのではないかと思うが、私達銀塩派が只只願う事は富士フィルムやコダックの銀塩フィルム(特にモノクロフィルム)からの撤退だけは避けて欲しいと願っている事である。
自家現像派にとって、現像処理液などは薬品の調合でなんとか出来ると思うが、フィルムだけは調達のしようがない。

関連記事

写真展にて。

30年程前に撮った雲の写真


先日、宇都宮市のSカメラギャラリィーである写真展が開かれていた。
会場内には、数十点の半切サイズの作品が展示され、殆んどがカラーによる作品であった。
展示会場には数名の会員の方がおられ丁寧に案内して頂いた。
見るところ皆様既に定年を越えられた方々であった。
クラブは宇都宮市横川にあり、会員数は20名ほどおられると言う。
展示作品は風景や祭りのスナップなどいろいろであったが、全日本写真連盟展で入選された作品が数点展示されていた。
やはり、どの作品を観ても長年写真を愛し、研ぎ澄まされた眼で捉えられた作品には隙がなく、すべてが素晴らしい作品であった。
久々に眼の勉強になった思いがする。



【“写真展にて。”の続きを読む】

国際写真サロン

kokusyas.jpg


昨日、栃木県さくら市のさくら市ミュージアムで開かれている”第66回 国際写真サロン”を見てきた。
国内国外の入選作品数十点が展示されており素晴らしい作品に圧倒されて帰ってきたが、ここ数年の傾向として、ベトナム、インド、イランなどの国々の作品群の多さが目立つ。
この作品展は県内で唯一見ることが出来るのでここ数年欠かさずに見ており、私の興味のあるモノクロ作品は全体の三割程度、やはり見応えがある。
だが最近見て思うことは、グラフィックの様な作品が何故か多いように思えることである。しかしこれもデジタルの進化によるPhoto表現の変化、時代の流れには逆らえない。
でもこれらの素晴らしい作品群を見ていると”撮らねばならない”と云う意欲が湧いて来てならない。







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