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「奥の細道」栃木路を新設。

かさね橋



先日、書店で「えんぴつで奥の細道」が山と積まれていた。
この書籍は今、中高年に大変な人気があると言う。
何故だろう。
本を捲ってみると、芭蕉の紀行文「奥の細道」が原文で紹介されている。
そして、原文を書写出来るように工夫されている。
丁度、ペン習字を習うかの様な感覚である。






[「奥の細道」栃木路を新設。]の続きを読む
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  1. 2006/06/09(金) 21:03:14|
  2. 奥の細道
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序文

大雄寺にて

     
      芭蕉出立の句   行春や鳥啼魚の目は泪
      芭蕉の句碑  (栃木県黒羽町大雄寺)

             序文

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、  草の戸も住替る代ぞひなの家  面八句を庵の柱に懸置。


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テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学

  1. 2006/06/09(金) 22:56:30|
  2. 奥の細道
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「間々田」

間々田八幡宮


一 廿八日マヽダニ泊ル。カスカベヨリ九里。
前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。
間モナク降ル。午ノ下尅止。
此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入。
廿九日辰ノ上尅マヽダヲ出。

(曽良随行日記より)


一 廿八日間々田に泊る。春日部より九里。
前夜より雨降る。午前7時半頃雨止んで宿を出る。
間もなく降る。午後12時半頃止む。
この日栗橋の関所を通る。往来手形も断りも入(い)らず。
廿九日午前7時半ごろ間々田を出る。


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テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/06/11(日) 06:28:55|
  2. 奥の細道
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奥の細道 「飯塚」

一 廿九日 辰ノ上尅マヽダヲ出。
 一 小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ右ノ方ニ有。
 一 小田ヨリ飯塚ヘ一リ半、木澤ト云所ヨリ左ヘ切ル。
 一 飯塚(此間姿川越ル。)ヨリ壬生ヘ一リ半、飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキ
   レ、川(小クラ川)原ヲ通リ川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘ
   カヽリ、室ノ八嶋ヘ行。(乾ノ方五町バカリ、毛武ト云村アリ。)スグニ壬生ヘ出ル。
   此間三リトイヘドモ、貳里少余。
                                   (曾良随行日記より)


(飯塚地内、思川堤より仮橋を望む)


飯塚の宿より狭い道を左に入ると小宅に抜ける橋がある。
思川に架かるこの橋は乗用車が通れるくらいの幅の狭い仮橋である。




「奥の細道」”曽良随行日記”の
原文解説等はこちらの本を参考に
しています。
文庫本なのでいつもポケットに入
れて持ち歩いていますので表紙が
擦り切れてしまいました。



[奥の細道 「飯塚」]の続きを読む

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/06/17(土) 22:42:02|
  2. 奥の細道
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奥の細道 「室の八島」

室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。
無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。
又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。
                                   (奥の細道より)

大神神社


思川を渡り惣社河岸に上がった芭蕉一行は大神(おおみわ)神社へと向かう。

参道の両側に寄進された赤い気の灯篭の中を行くと正面に大神神社の社殿が見えてくる。
広い境内は年功のある太い杉の木に囲まれ凛とした神聖な霊気に包まれている。
右手に神楽殿、左手には室の八島といわれる池が広がり、その入り口には芭蕉の句碑がある。
大神神社は、今から千八百年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられ、祭神は大物主命です。
惣社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神々を勧請し祀ったものです。

案内




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テーマ:俳句 - ジャンル:小説・文学

  1. 2006/06/21(水) 10:18:16|
  2. 奥の細道
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奥の細道 「壬生」

スグニ壬生ヘ出ル(毛武ト云村アリ)。此間三リトイヘドモ、弐里余。
一 壬生ヨリ楡木ヘ二リ。
  ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。
(曾良随行日記より)


吉次ガ塚


「吉次ガ塚」

室の八島から小倉川を渡って壬生へ入り、鹿沼方面に向かって3km程行くと稲葉の交差点がある。
そこにはセブンイレブンがありその裏の田んぼの中に「吉次が塚」がひっそりと立っている。
また、ここから100mほど北に「稲葉の一里塚」がある。



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  1. 2006/06/22(木) 13:14:45|
  2. 奥の細道
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壬生について(一)

壬生町は五街道の一つ日光街道の西街道(裏街道)の宿場町であり、鳥居三万石の城下町で舟運の便もあったので大変賑わった。
西街道とは宇都宮を通る本街道によらず小山から壬生を通り、鹿沼、今市に至る街道で、公式の日光社参の往路は本街道を通り、帰路は西街道を通った。
西街道は不浄(縁起の悪い)の時の通路にもなった。慶安四年(1651)三代将軍家光の遺骸を江戸から日光の改葬する時、西街道を通り途中その柩が壬生の興光寺に安置されたそうである。別名御成街道(将軍のお成りになる街道)とも云う。
例幣使街道は京都から日光への勅使が通る道で、京都から中仙道を通って上野、の中部で分かれ、下野の足利、佐野、栃木、家中、金崎、鹿沼を経て日光へ向かった。(壬生は通らない)

大宝令が布かれた頃、駅路の制によれば、重要度によって大路、中路、小路に分けられた。
大路は京都と中国との交通路にあたる山陽道で九州の大宰府に通じていた。
下野を通る道は東山道に属し中路であった。小路は各国府間を結んでいた。
東山道は京都から近江、美濃、信濃、上野、下野と内陸を通り奥州白河に至り壬生町はその中の宿駅だった。
その当時の関東地方は、野草が茫々と繁茂し馬の頭をも没する様な荒野が多かった。当時の中仙道はみかも山(栃木県岩舟町)の頂上を過ぎたといわれ、山を目当てにして道を迷わぬ為であった。



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  1. 2006/06/24(土) 06:12:43|
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奥の細道番外 「磯山神社」

磯山神社


壬生を後にして例幣使街道を北進し、南押原小学校手前を西に入ると鬱蒼とした杉林の中に磯山神社がある。
芭蕉一行が立ち寄った形跡は無いだろうが、今、アジサイが境内を埋め尽くしている。
夕刻になると提灯に明かりが燈され幽玄な世界に包まれる。




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  1. 2006/06/25(日) 00:03:26|
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壬生について(二)

慈覚大師・円仁

産湯の井戸


慈覚大師・円仁は794(延暦13年)、下野国(今の栃木県)都賀郡に壬生氏の子として生まれました。誕生の地は、壬生町の紫雲山壬生寺であると言い伝えられています。ここには円仁が生まれたとき産湯として使ったという「産湯の井戸」が残っています。
9歳で大慈寺(下都賀郡岩舟町小野寺)の高僧広智(鑑真和上の弟子)のもとで仏教を学びました。15歳のとき、比叡山で最澄(天台宗の開祖)の元で厳しい修行をしました。



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  1. 2006/06/26(月) 08:03:36|
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奥の細道番外 「那須駒」

黒羽芭蕉公園にて



先日の新聞記事に栃木県那須地方で飼育されている農耕馬「那須駒」が紹介されていた。
那須駒は古代から那須連山一帯で飼育され、がっしりした短い足と大きなヒヅメが特徴で、1950年代には4000頭ほどがいたという。
その後、農作業の機械化が進み、激減して那須町には1頭が残るのみで存亡の危機に陥っているという。(読売新聞より)


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  1. 2006/06/27(火) 08:10:13|
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奥の細道 「鹿沼」

一 ニれ木ヨリ鹿沼ヘ一リ半。
一 (昼過ヨリ曇。)
   同晩鹿沼(ヨリ火バサミヘ貳リ八丁。)ニ泊ル。

                 (曾良随行日記より)





太光寺 笠塚


光太寺 「笠塚」

東武日光線、新鹿沼駅より北西の山の際に光太寺というお寺がある。
急な階段を上りつめると山に張り付いたように立派な本堂が建っている。本堂の脇には芭蕉の死後、寺に残された芭蕉の破れ笠を埋めて供養したといわれている 「笠塚」 があり碑面には 「芭蕉居士 嵐雪居士」 の八文字が刻み込まれている。
境内の東端に建つ鐘撞き堂からは東に広がる鹿沼市外が一望できる。


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  1. 2006/06/28(水) 00:32:12|
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句碑・繁桂寺(県南)





”名月や池をめくりて夜もすから ”
                芭蕉翁

享和年間=享和三年(1803)推定
夏目成美筆
下都賀郡藤岡町藤岡字新町
曹洞宗繁桂寺

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  1. 2006/07/01(土) 06:52:43|
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奥の細道番外 「奈佐原」

栃木県南地方に残る芭蕉の句碑の紹介が一段落したので、本来の目的である「奥の細道」にもどりたいと思う。県央・県北の句碑はまだたくさんあるので徐々に紹介していこうと思います。
話は鹿沼よりすこし南に戻るが。

壬生より楡木へ向かう道の両側には、昔の並木の名残であろうか年功のたった杉や桧がところどころに立っている。そして楡木町の追分を過ぎて暫らく行くと奈佐原と言う所がある。
ここには文化年間(1804~1817)より伝えられた人形浄瑠璃、奈佐原文楽が継承されている。

奈佐原神社
奈佐原神社(文楽とは関係ありません)


奈佐原文楽

文化年間(1804~1817)には、一座があったものと思われます。当時の奈佐原は日光西街道・例幣使街道の宿場として栄え、遊芸人の往来も見られ、これらの影響を受けて、地元の同好者によって始められたようです。
その後衰微しましたが、明治時代に大阪文楽座主吉田国五郎の門弟で、人形遣いの名人吉田国造(後の西川小伊三郎)が奈佐原に居住し、人形の操作や浄瑠璃の指導に当たるとともに、浄瑠璃は大坂文楽座を退座した竹本蔦太郎が楡木に住んで指導に当たりました。
門弟の一人臼井巳之作(豊吉)は昭和37年(1962)12月14日、県の無形文化財に指定されましたが、同45年死去し、現在は地元の同好者によって演じられています。
座員一同芸に励み、その技量の評価も高く、なかでも「絵本太功記十段目」、「阿波の鳴門順礼歌の段」、「奥州安達が原三段目」はお家芸となっています。
(鹿沼市のHPより)

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  1. 2006/07/14(金) 07:25:12|
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奥の細道 文挾

一 四月朔日
前夜ヨリ小雨降。辰上尅、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。


一 四月一日
前夜より小雨降る。午前7時半頃、宿を出る。雨止むが折々小雨降る。
                  (曽良随行日記)


鹿沼市街を流れる黒川に掛かる御成橋を渡り、今市へと向かう。
例幣使街道の両側には所々に太い杉の名残があり、鹿沼市の武子を過ぎたあたりから日光へと続く杉並木が始まる。
ここには松平正綱・信綱父子が杉並木を寄進した碑”杉並木寄進碑”がある。日光杉並木は、国の特別史跡・特別天然記念物に指定されている。
しばらく行くと並木の右側に文挟駅がある。
曽良随行日記には 同晩鹿沼(ヨリ火バサミヘ貳リ八丁。)ニ泊ル。 とあるが火バサミはここの文挾を云うのであろう。

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  1. 2006/07/16(日) 08:10:01|
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奥の細道 今市

木像


今市の日光例幣使街道と日光街道の合流地点に追分地蔵が祭られている。
分岐点に安置されているので追分地蔵と呼ばれている。
もともと日光含満が淵(がんまんがふち)にあったものが大谷川の洪水で流され砂に埋もれていた。
ある日、石屋が大石と間違えて地蔵の背中にノミを入れたところ、真っ赤な血が流れた」という伝説のある地蔵尊である。

この追分の二軒手前に私の父の生家がある。
もともとが米屋であり、今は燃料店を営んでいて今市市民への燃料供給に寄与している。
この樋山家には上の写真にもある古い木造の坐像が四体あり、家主の話では家康像ではないかとも云われていて、樋山本家のご神体として大切に祭られている。
聞いた話では数十年前に旧今市市からも調査依頼があったそうである。(写真は私が20歳のころ、36年前に撮影)





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  1. 2006/07/17(月) 05:28:36|
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奥の細道 日光(一)

日光



卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書しを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。

  あらたうと青葉若葉の日の光


四月一日、日光山に参詣する。その昔、この御山を二荒山と書いたが、空海大師が開基の時に日光と改めなさった。千年後の将来を推しはかってのことだったろうか。今になって、ここ日光山東照宮のご威光が天下に輝き、そのお恵みは国の八方の果てまで行き渡り、士農工商の民がすべて安堵な暮しができ平穏である。なお、これ以上日光山にふれるのは恐れ多いので、このあたりで筆をおくことにする。
 青葉や若葉に差し込む日の光は、この日光山が国の八方まで放つご威光そのもので、実に尊いものであるよ。   (奥の細道)

日光山内



”あらたふと青葉若葉の日の光”の句は「俳諧書留」に
   ”あらたふと木の下暗も日の光”
元禄九年の「初蝉」に
   ”たふとさや青葉若葉の日の光”
正徳三年の舎羅撰に
   ”あらたふと若葉青葉の日の光”
とあり奥の細道は元禄七年頃まで推敲が重ねられて現在に至った。




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  1. 2006/07/18(火) 10:28:27|
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奥の細道 養源院

養源院跡


芭蕉一行は日光へ着いて養源院を訪ね、江戸浅草の清水寺からの紹介状を宿坊養源院の住職生英へ届けている。
養源院は水戸家の宿坊を務めた大坊。東照宮社務所の東側の滝尾参道脇にあり石畳の道筋には僧坊がつらなっていたという。

一 四月朔日午ノ尅、日光ヘ着。雨止。清水寺の書、養源院ヘ届。大楽院ヘ使僧ヲ被添、折節大楽院客有之。未ノ下尅迄待テ御宮拝見。

一 四月一日正午頃、日光へ着く。雨止む。江戸浅草・清水寺からの紹介状を宿坊養源院へ届ける。日光東照宮御別所(社務所)大薬院へ使僧の案内を得て趣く。折節大薬院に来客中で、午後2時半頃迄待って御宮を参拝。
                             (曽良随行日記) (養源院の説明を見る)

養源院は東照宮の裏手にあり、勝道上人の霊廟開山堂の横、滝尾神社への入口にある。
石垣で積まれた跡地には家康の側室、養源院と英勝院の苔むした供養塔がひっそりと建っている。


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  1. 2006/07/19(水) 07:24:46|
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奥の細道番外 「瀧尾古道」

開山堂にて


勝道上人の霊廟”開山堂”裏手より稲荷川左岸に沿って太い杉の大木の中を石畳が伸びている。
その先には弘仁十一年(820)に空海が創建した瀧尾神社がある。
ここは、東照宮の煌びやかな賑わいをよそに静寂に包まれた”もう一つの日光”を散策出来る隠れた場所でもある。
しかし、「奥の細道」で芭蕉一行がここに立ち寄ったという記述はない。

数年前に”瀧尾道”として写真を私のメインサイト「五月の風」に載せてあるので是非ご覧下さい。
こちらは昨年モノクロで撮った”滝尾道にて”です。


杉並木と石畳
瀧尾神社へと続く瀧尾道。

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開山堂
開山堂は地蔵堂とも呼ばれ、この裏に勝道上人の墓がある。

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  1. 2006/07/20(木) 07:27:41|
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奥の細道 男体山

男体山


男体山はその昔日光山とも黒髪山とも二荒山とも呼ばれ、その「ふたら」とは観音浄土の補陀洛(梵語)から出ている。日光という地名は、「二荒」(にこう)を音読みにしたものともいわれる。
奈良朝末期から平安朝初期にかけて活躍した僧侶、勝道上人が西暦782年二荒山(男体山)登頂に成功したことに始まる。江戸時代までは修験の地とされていた。


黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。
     ”剃捨て黒髪山に衣更” 曽良
曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせんことを悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。


黒髪山は霞がかって、雪が今なお白く残っている。
     ”剃捨て黒髪山に衣更” 曽良
黒髪を剃り捨てて墨染めの衣で行脚の旅に出たが、おりしも今日は四月の一日。衣更えの日をこの黒髪山の麓で迎えることになったとは。曽良は河合氏で、名を惣五郎という。深川の芭蕉庵と軒を並べるようにして住み、家事の労を助けてくれている。このたび松島や象潟を共に眺めることを喜び、さらには旅の辛さをいたわってくれようとして共に旅立ち、その朝に黒髪を剃って墨染めの僧衣をまとって姿を変え、惣五を宗悟に改めた。このような経緯から黒髪山の句が作られた。「衣更」の二字に、本来の衣更えと行脚の決意が共に感じられ、力強く聞こえる。
                                           「奥の細道」


日光連山
左より男体山、大真名子山、如峰山、塩谷町船生より望む。


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私のもう一つのブログ”May's Room 花紀行”に”ひまわり”を追加しました。





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  1. 2006/07/21(金) 15:17:59|
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奥の細道 裏見の滝

裏見の滝


神橋から清滝方面に向かうと、右手に古河記念病院がみえてくる。
その先、荒沢川の橋の手前を右に曲がり、2キロほど行くと駐車場に着く。
そこから小鳥の声や荒沢の音を聞きながら階段のある山道を荒沢渓谷沿いに登っていくと15分ほどで裏見の滝に着く。
沢の橋から奥の方にダイナミックに流れ落ちる滝の景観は言葉では現せないほど雄大で素晴らしい。ただ残念な事に数年前に展望台まで木製の階段が出来てしまったが、便利ではあるが景観を十分に損ねてしまった事は否めない。
ここからその木製の階段を上っていくと展望台へと着く。滝の轟音とマイナスイオンを全身に浴びながら眼前の滝に暫し見惚れてしまう。
昔は、ここから岩伝いに滝の裏側を通る事が出来たらしいが、今は通る事も滝を裏から見ることも出来ない。



廿余丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。
岩窟に身をひそめ入て瀧の裏よりみれば、うらみの瀧と申伝え侍る也。
”暫時は瀧に籠るや夏の初”


二十余町山を登ったところに滝がある。くぼんだ岩の頂から、百尺ほども飛ぶかと思われる勢いで、多くの岩を畳んだ青々とした淵に落ち込んでいる。
岩窟に身をひそめて入り込み、滝の裏から眺められるので、この滝を裏見の滝と言い伝えている。
轟く水音のみを聞いて滝裏にしばらくこもれば、雑念が払われ、まるで夏行の初めのような境地となるのである。
                          (奥の細道より)


一 同二日
天気快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出。ウラ見ノ瀧(一リ程西北)、カンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈須・太田原ヘ趣、常ニハ今市へ戻リテ大渡リト云所ヘカヽルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左へノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村ヘカヽリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。


一 同二日 
天気快晴。午前8時頃、宿を出る。裏見の滝(一里程西北)、含満が淵を正午頃迄見物。鉢石を立ち那須・大田原へ趣く。通常は今市へ戻って大渡から行くが、五左衛門が教えた通り、日光より廿丁程下り、左の方へ曲がり、大谷川を越え、瀬ノ尾・川室という村を通って大渡という馬継に至る。三里を少し越える。
                         (曽良随行日記より)



裏見の滝

裏見の滝は華厳の滝、霧降の滝とともに日光三大名瀑のひとつ。
滝の裏には不動明王が祀られている。これは1624(寛永元年)奥州の出羽三山から荒沢不動尊が迎えられ、天海大増正の命により、裏見滝に安置されたもの。男体山・太郎山大真名子山への信仰登山のための修行場で高さ45m幅2m落差19mの滝である。



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テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/22(土) 09:30:45|
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奥の細道 憾満ヶ淵

地蔵


「奥の細道」には憾満ヶ淵での記述はないが「曾良日記」には ウラ見ノ瀧(一リ程西北)、カンマンガ淵見巡、漸ク及午。 とあり、芭蕉一行は裏見の滝を見てからここに来たと思われる。
ここには、慈眼大師天海の弟子約100名が寄進した地蔵が並んでいる。
明治35年(1902年)の洪水で親地蔵と他の地蔵がいくつか流され、100体近くあったのが70体ほどになっている。
その時に並び地蔵の中の親地蔵も流され、その首が川床に埋没していたのを見つけて浄光寺に安置したという。
並び地蔵は数えるたびに数が異なるといういわれから「化け地蔵」とも呼ばれている。芭蕉たちも数えてみたのだろうか。
含満ヶ淵は、古くから不動明王が現われる霊地と言われ、水流の響きが不動明王の呪文のように聞こえたので、僧晃海が、呪文の一句「憾満(かんまん)」をとって「憾満ヶ淵」と名付けたと伝えられる。


化け地蔵
”化け地蔵”






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  1. 2006/07/23(日) 12:20:57|
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奥の細道番外 大日堂

大日堂跡



裏見の滝から国道に戻り、はす向かいの狭い道を入ると安良沢(あらさわ)小学校があり、道沿いにそのまま奥まで行くと大谷川に掛かる大日橋に出る。狭い駐車場に車を置き、橋げたのたもとから降りていくと大日堂跡がある。
ここは慶安2年(1649)大楽院第二世の恵海が再建し、素晴らしい景観であったという。かつては美しい庭園がある寺院であったが、明治35年(1902)の大谷川の大洪水で堂宇は流失、その後大正8年(1919)の大洪水で残っていた一堂、池、石仏などすべてが流失して今は石塔だけが残っている。
明治9年(1876)の中禅寺行幸では明治天皇が大日堂で少憩されている。


案内図




大谷川に架る大日橋、奥の橋桁の左手下に大日堂跡がある。



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  1. 2006/07/24(月) 07:25:16|
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奥の細道 玉生

男体山


大渡ヨリ船入(船生)ヘ壱リ半ト云ドモ壱里程有。
絹川ヲカリ(仮)橋有。大形ハ船渡し。
船入(船生)ヨリ玉入(玉生)ヘ弐リ。
未ノ上尅ヨリ雷雨甚強。漸ク玉入(玉生)ヘ着。
一同晩玉入(玉生)泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。
                     (曾良随行日記)


大渡より船生ヘ一里半というが一里程。
鬼怒川に架かる仮橋有り。大形は船渡し。
船生より玉生ヘ二里。午後1時半頃よりかなり強い雷雨。
漸く玉生へ着く。
一同晩玉生に泊る。宿悪く、無理に頼んで名主宅に宿借る。


日光を出立した芭蕉一行は、大渡から鬼怒川を渡り船生から玉生へと向かう。
ここ船生には日本一の力もち神事(餅つき大会)が行われる岩戸別神社佐貫観音などの名跡がある。
次ページに、私が昭和46年に佐貫で撮ったモノクロ写真があります。


芭蕉一宿の碑


芭蕉一宿の跡” 
           塩谷郡塩谷町玉生

着いた宿があまりにも悪かっため、芭蕉は無理をいって泊めてもらった。
玉生宿にある名主の屋敷跡は今は荒れてしまっているが、山際の古い庭園跡は往時を偲ばせてくれる。

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  1. 2006/08/02(水) 20:27:57|
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奥の細道 那須野

沢観音寺より那須野が原を望む


那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。
遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。
草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。
ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、

    かさねとは八重撫子の名成べし 曽良

頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。
                                       「奥の細道」



那須の黒羽というところに、知人がいるので、ここから那須野の原に足を踏み入れ、近道をして真っ直ぐ行くことにする。
遥に一村を見かけて行に、はるかに一つの村を見かけて行くうちに、雨が降り出し、日も暮れてしまった。農夫の家に一夜を借り、夜が明けてまた野中を歩いて行く。その途中に、野原に放し飼いの馬がいた。
草を刈る男に、馬を貸してくれるよう哀願したのだが、いなかの百姓とはいえ十分に温情のある人だった。男は、「どうしましょうか。馬を使わないで行くとしても、この野原は縦横に道が分かれ、歩き慣れない旅人は道を踏み違えるでしょう。心配ですので、この馬で行って、止まったところで馬を返してくさだい」と言って、馬を貸してくれた。
小さい子供が二人、後を追って走ってくる。そのうちの一人は小さい娘で、名を「かさね」という。
聞き慣れない名前だが、優美で風情のある響きがあるので、曽良が一句したためた。

    かさねとは八重撫子の名成べし 曽良

このような片田舎で、思いもよらず、なかなか上品で美しい響きの「かさね」という名の小さい娘に出会った。花なら、さしずめ、花びらが重なって美しい八重撫子の名と言ったところであるよ。やがて人里に至り、お礼のお金を鞍つぼに結わえ付けて、馬を返したのだった。


一 同三日 快晴。辰上尅玉入ヲ立。
  鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。ヤイタヨリ澤村ヘ壱リ。  澤村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云ドモ二リ余也。
                                  (曾良随行日記)


一 同三日 
快晴。午前7時半頃玉生を立つ。鷹内へ二里八丁。鷹内より矢板へ一里程。矢板より沢村へ一里。沢村より大田原へ二里八丁。大田原より黒羽へ三里というが二里余り。翠桃宅、余瀬という所にあり、二十丁程引き返す。


かさね橋


塩谷町玉生から会津西街道を東に向かい矢板市へと出る。
途中倉掛を通り、曾良随行日記には鷹内へ二里八丁。鷹内より矢板へ一里程。とあるが今の幸岡をいう。
矢板から沢観音への道は矢板市成田三叉路より右手に入り、52号線を東進して行くと沢宿にはいり寺は左手の小高い山の上にある。
また、かさね橋は沢宿より手前の東北新幹線の手前の道(日光北街道)を左折し大田原方面に行くと箒川があり、そこに掛かる橋がかさね橋である。


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  1. 2006/08/03(木) 07:53:52|
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奥の細道番外 寺山観音寺

山門


寺山観音寺は矢板市の北西部、高原山の裾野に建つ下野三十三観音札所第七番の古刹である。与楽山観音寺といい、奈良時代の神亀元年(七二四年)のころ寺山観音の前身である法楽寺が、高原山剣ヶ峰近くに行基菩薩によって建立された伝えられる。
法楽寺は、当時山岳仏教の中心として栄えたものと考えられ、寺の在所、観満平などの地名が残っている。平安時代の大同元年(八〇六)徳一上人が法楽寺を現在の寺山の地に移し観音堂を建立したという。


鐘撞き堂
”鐘つかぬ里は何をか春の暮”  芭蕉

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  1. 2006/08/04(金) 09:28:04|
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奥の細道 黒羽

kurotop.jpg

(黒羽城址より那須方面を望む)


黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、
                                  -奥の細道-


黒羽の館代である浄坊寺何がしという人のところを訪ねた。
思いがけない私たちの訪問に主人は喜び、日夜語りつづけた。その弟の桃翠(翠桃)という人が、まめに来てくれたり、自分の家にも招き、親戚の家にも招待された。

澤村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云ドモ二リ余也。
翠桃宅、ヨゼ(濁モト)ト云所也トテ、貳十丁程アトヘモドル也。

   -曾良随行日記-



元禄2年(1689年)4月3日(新暦5月21日)、芭蕉と曽良は、玉生の宿を早朝に立ち、矢板、沢村、大田原を経、黒羽余瀬の翠桃宅に到着した。
黒羽では城代家老の浄坊寺図書(桃雪)とその弟鹿子畑善太夫(翠桃)に迎えられ、「奥の細道」紀行での滞在は黒羽が一番長く、4月3日から16日まで13泊14日の長期滞在をした。
余瀬は黒羽の北西にあり大田原と隣接している。



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  1. 2006/08/12(土) 08:34:16|
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奥の細道 玉藻の前

鏡が池


日をふるまゝに、日とひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。
                                    -奥の細道-


このようにして日が経つなかで、あるひ、郊外に散歩に出かけ、犬追物(いぬおうもの)の跡を一とおり見たあとで、那須の篠原に分け入って玉藻の前の古い墓を訪ねた。

一 十二日 雨止。図書被見廻、篠原被誘引。
                           -曾良随行日記-



犬追物の跡は黒羽中心街より国道294号を北に下り、ふるさと物産センターの信号を左折して行くと左側に案内板がある。
また、玉藻稲荷神社はここから2キロほど先の篠原にあり、鬱蒼とした林の中にある。ちょっと寂しい所ではあるが芭蕉の句碑と源頼朝の歌碑がある。

『欲しいものきっと見つかる!ストラップヤ』
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  1. 2006/08/13(日) 06:00:08|
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奥の細道 黒羽(二)



城代家老の浄坊寺図書(桃雪)邸跡


黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。
思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて
                          -奥の細道


黒羽の館代である浄坊寺何がしという人のところを訪ねた。
思いがけない私たちの訪問に主人は喜び、日夜語りつづけた。

四日 浄法寺図書ヘ被招。
                          -曾良随行日記


黒羽での芭蕉は、城代家老の浄坊寺図書(桃雪)邸に招かれ厚くもてなされ泊まっていた。
浄坊寺図書(桃雪)邸跡は黒羽城址の南、大雄寺のすぐ北にあり芭蕉公園として整備されている。
黒羽城址、芭蕉公園、芭蕉の館に関しては黒羽町商工会のサイトに詳しく載っています。



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  1. 2006/08/16(水) 20:19:42|
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奥の細道 雲巌寺





当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。 竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば和尚は、「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。十景が尽きる所の橋を渡って山門に入る。さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
   ”木啄も庵はやぶらず夏木立”
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。                                                                       -奥の細道-



この下野国の雲巌寺の奥に、仏頂和尚の山居跡がある。
と松の炭で傍らの岩に書き付けましたよ、といつぞや語っておられた。
その跡を見ようと雲巌寺に行こうとすると、人々が進んで共に誘い合い、多くの若い人が道々にぎやかに騒ぎ、気が付けば山寺の麓に着いていた。
山は奥深い景色であり、谷道は遥かに続き、松や杉はあたりを暗くし、苔はみずみずしく輝き、卯月というのに寒々としている。
さて、仏頂和尚の山居跡はどこにあるのかと、寺の背後の山によじ登ると、岩の上に、小さな庵が岩窟に立てかけるようにして築かれていた。
中国の高僧妙禅師が「死関」の額を掲げて修行した洞穴や法雲法師が身を置いた大岩の上の居所を見るような思いがした。
    ”木啄も庵はやぶらず夏木立”
さすがのきつつきも、仏頂和尚の結んだ山居だけはやぶろうとはしないようだ。こうして、うっそうとした木々の中に和尚が修行した庵を拝見することができたのはありがたいことだ、と感じ入り、取り敢えず一句を書いて柱に残したのだった。


五日 雲岩寺(8)見物。朝曇。両日共ニ天氣吉。
                       -曾良随行日記-



雲巌寺山門


黒羽から雲巌寺へは461号線を八溝山方面に東進する。
杉の大木に囲まれた山門の入り口には朱塗りの反り橋が掛かり、幽玄な世界に入り込んだ雰囲気である。
雲巌寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺で山号を東山という。
ここは芭蕉が江戸で修行した禅の師、仏頂和尚が滞在していた古刹でもある。
筑前博多・聖徳寺、越前・永平寺、紀州由良・興福寺とともに禅宗の四大道場の一つとされる。



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  1. 2006/08/19(土) 08:45:11|
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奥の細道 高久・那須

高福寺(高久)


城代家老の浄坊寺図書(桃雪)に見送られ、余瀬を発った芭蕉一行は元禄2年(1689年)4月16日(新暦6月3日)、芭蕉と曽良は高久に到着し、高久覚左衛門宅に2泊した。
高久邸は国道四号新高久の高福寺の近くで、宅地内には「芭蕉二宿」の碑と芭蕉翁塚がある。


是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、
野を横に馬牽むけよほとゝぎす 
                   -奥の細道-


これより殺生石に行く。館代が馬で送ってくれた。
この馬を引く男が「短冊に一句書いてくれませんか」とせがんだ。風流なことを望むものだと感心し、応えてあげた。
  野を横に馬牽むけよほとゝぎす
どこやらでほととぎすが鳴いているよ。さあ、聞こえる方に馬を差し向けて、いっしょに聞こうではないか。



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  1. 2006/08/30(水) 07:04:16|
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